【聖句】
神は、その独り子を
お与えになったほどに、
世を愛された。
(新約聖書・ヨハネによる福音書3章16節)
【黙想】
掃除機をかけながら、
ちょっとした障害物を
ひょいと軽々持ち上げて
スイスイ進んでいく、
そんな自分の姿に気づいて、
ふとこう思いました。
「いつかはこんなこと
できなくなるんだなぁ」と。
なぜこんなことを
思ったのかは分かりません。
でも、ほんの一瞬、
自分に与えられている
いろいろなものが
いつまでもこのままでは
ないということに
ハッとさせられました。
歩くこと、
食べること、
持ち上げること、
声を出すことだってそう。
いつまでも
このままではないでしょう。
そう思ったとき、
玉木愛子さんという
クリスチャンの俳人の
言葉を思い出しました。
彼女は若くして
重い皮膚病を患い、
家族から隔離され、
ついには視力を失い、
手も足も萎えていく、
そのような方でした。
そんな彼女が、
ある年のクリスマスに詠んだ句。
目をささげ
手足をささげ
降誕祭
あらゆるものが
失われる中にあって、
すべてのものが
取り去られていく
中にあって、
ただ一つ、
自分に与えられ、
決して取り去られないもの。
それが、救い主
イエス・キリストだったのです。
その主イエスを思うとき
失われた自分のすべては
このお方に捧げたのだ、
お返ししたのだ、と
思えるようになった。
そんな喜びと
平安の込められた句だと
思います。
兄弟姉妹。
私たちに与えられているもので
いつまでも手元にあるものは
一つもありません。
私たちきっと、
一つ一つ、何かを
手放しながら生き、
そして死を迎えるのだと
思います。
しかし、たった一つ、
どんなことがあっても、
まさに死を迎える
さなかでさえも、
私たちから
取り去られないものがある。
それは、
神様が私たちに
与えてくださったお方、
救い主イエス・キリストです。
この方は、
何があろうとも私たちから
取り去られることはありません。
私たちから立ち去られることは
ありません。
私たちは
剥がれ落ちて、
剥がれ落ちて、
最後、何もなくなる
タマネギではない。
すべてが剥がれ落ち、
何もかもが失われても、
イエス・キリストが
おられます。
むしろ、
一つまた一つと、
剥がれ落ち、
取り去られるほどに、
イエスさまが
くっきりと見えるように
なっていくのかもしれません。
そしてすべてが
文字通り取り去られたとき、
私たちは天の御国で
顔と顔とを合わせて
イエス・キリストを見るのです。
玉木愛子さんには、
こんな句もあります。
毛虫這えり
蝶となる日を
夢見つつ
何も見えず、
手も足もない自分を
まるで毛虫のようだと
言いながら、
その毛虫はしかし、
蝶となる日を夢見る
毛虫なのだというのです。
御国の門で蝶になり、
その羽でふわりと
どこに向かって
飛んでいくのか―。
イエスさまのところ!
【小さな祈り】
主よ、
すべてのものは
あなたから与えられたもの。
私たちはそれらを
一つまた一つと
あなたにお返しし、
あなたに
お捧げしながら、
生きていくのです。
それはしばしば
痛みや悲しみを
ともないますが、
それはきっと、
イエスさまを
もっとさやかに
見るためなのです。
主よ、どうか
わたしの目を開いてください。
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*あなたの言葉で祈りましょう。・
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アーメン。
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