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執筆者の写真元気牧師

9月7日(水)



【聖句】


事実、あなたがたは、恵みにより、

信仰によって救われました。

このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。


(新約聖書・エフェソの信徒への手紙2章8節)



【黙想】


昔、テレビで見たあるおじいさんの言葉が、

なぜだがとても印象に残っています。


そのおじいさん。

近所のごみ拾いをしたり、

あちこちでボランティアをしたりと、

日々いろいろな善行に励んでいました。


テレビのインタビュアーの人が、

「どうしてこんなに善いことを頑張っておられるのですか?」

と聞くと、おじいさん、一言こうおっしゃいました。


「だって、いいところに行きたいじゃない。」


このときのおじいさんの言葉が忘れられません。

「(死んだあと)いいところに行きたい」。

シンプルに言い換えれば、

救われたい、とも言えるでしょう。


救われたいから、善行に励む…。

普通の発想なのかもしれません。

そして、おじいさんがしている善い行いは素晴らしいことだと思います。


でも、そんな元気なおじいさんの言葉を聞いて私はすぐ思ったのです。


「おとうさん、それじゃあ、病気したらどうするんですか?」

「善い行いできないくらい体が弱い人は地獄行きなんですか?」って。


善い行いに励むことができる人しかイイトコロに行けないとすれば、

やっぱり私は、それは救いではないと思うのです。


寝たきりの人がいます。

元気だったのに病気になってしまった人がいます。

頑張れない日だってあるし、

頑張れなくなる日が来るかもしれないじゃないですか。


頑張れなくなって泣いている人に、

「良いとこ行きたいやろ!」と発破をかけますか。

死を目の前にして恐れと不安の中にある人に、

「どれだけ善行してきたか?」と聞きますか。


わたしにはそんなことできません。

わたしに出来ること。それは、

「あなたの救いのために、すべてを成し遂げてくださった方がいます」と伝えること。


そして、その方があなたのためにしてくださったことを、

信じて受け入れてください、と伝えること。


信じるだけで救われる。

―そんなお手軽な救いなどあるものか、とある人は言うでしょう。

お手軽ではありません。

そのために、神の子イエス・キリストが命を投げ出してくださったのですから。

十字架は、アクセサリーではなく私たちの命綱そのものなのです。


私たちはただ、

あれができる、これができない、そんな「自分の側」のことを手放して、

神様が差し出してくださっている恵みとしての救いを

信じて受け取るのです。


もう一度、今日の聖句を心に刻んでください。



事実、あなたがたは、恵みにより、

信仰によって救われました。

このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。




【小さな祈り】


主よ。

あなたは救いの方法論ではなく、

救いの手引書ではなく、

「救い主イエス・キリスト」を与えてくださいました。

私のために命を投げ出してくださった方。

ご自身の尊い血を流して、

私を神様の子どもにしてくださった方。

私の救いは、主イエスにあります。

*ご自分の言葉で感謝と信頼の祈りを捧げましょう。

アーメン。


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