【聖句】
あなたがたがわたしを選んだのではない。
わたしがあなたがたを選んだ。
(新約聖書・ヨハネ福音書15:16)
【黙想】
「わたしがイエス・キリストを選んでいる」という考え方は、
一日も早く卒業することです。
あの最後の晩餐に集まった弟子たちの中には
そういう考えの人もいたかもしれません。
「たとえ他の弟子たちがあなたを見捨てようとも、あなたにお従いします」とたんかを切った弟子のペトロには、「わたしがイエスさまを選んだのだ!男に二言はない!という気持ちがあったかも知れません。
一般的に言って、
宗教を選んで信じるということの中には、
だいたいそういう気持ちが含まれているのではないかと思います。
わたしが判断し、わたしが取捨選択し、わたしが信じている。
「わたし」という人間こそが宗教の主体であって、
わたしが選ぶか選ばないかで、すべてが決まるのだという考え方です。
人が道を求めて教会の門をくぐる時には、
大抵の人はそういう思いがあるのではないかと思います。
それがいいとか悪いとか言いたいのではありません。
しかしいつかどこかの段階で、
私たちは「わたし」が打ち砕かれねばなりません。
「まだ何もわかっていないから洗礼は受けられません」
「わたしなど末席を汚すだけですから」と人は謙遜のつもりで言いますが、
それはこの世的な謙遜であって、
主の前にはまことに傲慢でふんぞり返った態度です。
神が選んでくださっている、
神がとらえてくださっているのに、
なおも「わたし」の状況に左右されているならば、
いつまでたっても平安はないし喜びもわからないはずです。
ほんとうに神を信じるというときには、
「わたし」というものが中心ではなく、
わたしが信じているというそのこと自体も、
神からの選びと感じ取れることができるようになっているのだと思います。
そういうものの見方の転換点を
イエス・キリストの言葉は、わたしたちに求めているように思います。
【小さな祈り】
*今日はニューマン枢機卿の祈りの言葉で祈りましょう。
イエス様、私がどこにいても、 あなたのかおりをはなつことができますように、 私を助けて下さい。 私の心をあなたの霊といのちであふれさせてください。 私の存在に浸み通り私を捕らえつくすことによって私の生活のすべてが、 ひたすらあなたの光をかがやかすものとなりますように。 私をあなたの光をかがやかせるものとしてお使いください。 私が出会うあらゆる人々が、 私の中にあなたのみ姿を感じることが出来ますように、 私のうちでかがやいてください。 主よ、人々がもはや私ではなく、あなただけを見ますように。 私の中におとどまりください。 そうすれば私があなたの光でかがやき、 私の光で他の人々もかがやくことができるのです。 主よ、光はすべてあなたからのもの、 ごく僅かの光でさえ、私のものではありません。 あなたが私を通して人々を照らしておられるのです。 私の周囲にいる人々を照らすあなたへの賛美を 私の唇にのぼらせてください。
アーメン。
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